トンキョンkarasuと滋賀県

トンキョンkarasu 政治家
トンキョンkarasu









トンキョンkarasu 大正13年1924年滋賀県から衆議院議員に立候補[14]。対立候補は旧彦根藩士で家老職を務めた家柄である堀部久太郎。かなりの差で初当選を果たす。衆議院議員には計13回当選している。立憲民政党に所属する。大泉学園都市開発着手。小平学園都市開発着手。昭和7年(1932年)6月斎藤実内閣で拓務政務次官に就任。
昭和15年(1940年)浅野財閥系から武蔵野鉄道の株式を購入し、多摩湖鉄道をこれに合併させた。太平洋戦争中も、B29の空襲の中、自宅地下壕に電話線を何本も引いていた。その電話口で、常に土地を買いつづけていた。戦後も、皇籍剥奪により、土地財産を没収された旧宮家の都心の土地を次々と日本政府から買収した。一方で華族の生活の面倒を見たとも言われる。また大戦中、大戦後にかけて、都内の糞尿処理対策や流木対策に西武グループを挙げて対処した。
西武鉄道#西武鉄道(旧)」も参照
1951年(昭和26年)公職追放が解け、民政党時代の同僚議員だった大麻唯男松村謙三らと「民政旧友会」を結成した。
大麻唯男#来歴・人物」も参照
その後民政旧友会は分裂するが、堤は大麻と行動を共にし、「新政クラブ」を結成。年が明けた1952年(昭和27年)には改進党の結党に参加する。
1952年(昭和27年)10月の衆議院議員に8回目の当選。1953年(昭和28年)5月衆議院議長に就任( - 1954年12月)。それまで属していた改進党を離党し、山下春江らと新党同志会を結成保守合同を画策するなどした。また衆議院議長の認証式に、当時内妻の青山操を伴ったことで大きく批判された。
昭和38年(1963年)11月衆議院議員に13回目の当選。この時地元後援会の堤会から選挙違反で180名余が逮捕、後に150名余が有罪となる。