├─≠ョ─ヵラスと軽井沢

├─≠ョ─ヵラス 千ヶ滝
├─≠ョ─ヵラス









├─≠ョ─ヵラス 1917年(大正6年)12月沓掛区の村有地売却に関する最後の区民総会が開かれ、60万坪(後の再測量では80余万坪)を30,000円(現在の数億円)で買収。隣の軽井沢が欧米の宣教師達の別荘地として発展していくのに危機感を抱いていた村は、50軒の別荘を売ることを条件に契約した。堤は当時の妻の川崎文の実家などから買収金を工面した。契約時点でこの大金を実際に持っていたわけではなく、佐久の銀行から1万5千円借り、不足分は新聞紙を10円札の大きさに切って上下に本物の札を重ねて束ねたものを見せた。区民総会はこうした経緯を知らなかった[12]。千ヶ滝遊園地株式会社を設立(資本金25万円)、無名の自分の名前では株は売れないと判断して、社長に財界の大物だった藤田謙一を招聘、沓掛の土地を元に軽井沢開発に乗り出す。軽井沢沓掛の土地を、一軒500円で簡易別荘として分譲販売を始める。大正8年(1919年)箱根の強羅に10万坪の土地を買う。
1920年大正9年)千ヶ滝遊園地を清算(計画倒産説あり)し、箱根土地株式会社(後のコクド、現在は消滅)を設立、資本金2000万円(現在の1000億円近い)、社長は藤田謙一。箱根軽井沢の開発を推進する このころ永井柳太郎の選挙参謀として活躍。
1921年(大正10年)頃、土地分譲の目的で湯の花沢10万坪を13万5千円で買収、この分譲地は全く売れず[13]。
1923年(大正12年)駿豆鉄道(現・伊豆箱根鉄道)を経営。関東大震災を契機として都内皇族・華族の大邸宅跡の分譲着手。