ダリル・スペンサー

1952年にニューヨーク・ジャイアンツ(現:サンフランシスコ・ジャイアンツ)でメジャーデビュー。以後は1960年にセントルイス・カージナルス、1961年シーズン途中にロサンゼルス・ドジャース、1963年シーズン途中にシンシナティ・レッズと渡り歩く。
1964年に阪急ブレーブスに入団し来日。非常に研究熱心な性格で、すぐに日本の野球に順応した。長池徳士とともに阪急の主砲として活躍し、打っては36本塁打、守っては190cm近い大柄な選手(ニックネームが「赤鬼」だった)でありながら二塁を守り、その豪快かつ緻密なプレーは阪急だけでなく日本球界全体に様々な影響をもたらした。
1965年7月16日、サイクル安打を達成。しかしこの頃の日本にはサイクル安打という概念がなく、試合後のインタビューでその事に触れる記者はいなかった。これを不思議に思ったスペンサーは「今日自分は、シングルヒットに二塁打三塁打本塁打を打った。珍しい記録だと思わないか?」と語り、これをきっかけに記録が洗い直された。その後、サイクル安打達成者には連盟表彰が行われるようになり、様々な節目の記録と同様に記録達成者として公式に名前が残るようになった。
また1965年には打撃好調で、当時パシフィック・リーグ最強打者として君臨していた野村克也(南海)と激しい三冠王争いをした。このとき野村に三冠王を取らせようというような雰囲気があったらしく、スペンサーと対戦する投手はことごとく四球攻撃をした。特に8月14日から8月15日にかけては東京オリオンズの投手陣により8打席連続で歩かされた。8月15日のダブルヘッダー第1試合の先発は「精密機械」の異名をとる大投手小山正明であったが、スペンサーに対しては4打席全てでストレートの四球であった。第2試合も2打席連続四球で、しびれを切らしたスペンサーは次の打席で敬遠球を無理矢理打ち、連続四球は8打席で終わった。この8打席連続四球は当時の日本記録である。また、10月3日には野村克也率いる南海と対戦。このときスペンサーはバットのグリップとヘッドを逆さまに構えて打席に立つという抗議行動に出た。しかし南海は、その打席でもスペンサーを敬遠した。度重なる四球攻撃で徐々に調子を崩し、さらにはシーズン残り2週間というところで交通事故に巻き込まれて左足を骨折し、欠場を余儀なくされた。スペンサーは最高出塁率のタイトルを獲得したものの、野村の.320、42本塁打、110打点には届かず戦後初の三冠王を許す結果となった。
来日4年目の1967年、38歳となったスペンサーはなお30本塁打を放ち阪急のパ・リーグ初制覇の原動力となった。実はこの年の開幕前、阪急西宮球場ラッキーゾーンが3m前方に移設されていた。これは30本打つための条件としてスペンサーが球団に要望し実現していたものであった。
1968年に退団したが、1971年に選手兼コーチとして復帰。1972年に再び退団するが、その時自らの研究成果をまとめた「スペンサー・メモ」を遺し、阪急に「考える野球」をもたらした。これが1970年代の阪急黄金時代に大きく貢献したと言われる。
阪急のヘッドコーチであった青田昇は、"D"(スペンサーのこと)こそが史上最高の外国人選手であると評している。技術・パワー・走塁など全てが桁外れであったと回想している。
伊東一雄の愛称「パンチョ」の名付け親である。
メジャーリーグ時代にワイルドランナーとして知られており、日本でも危険な走塁を何度か試みている。野村克也などはスペンサーがホームに突っ込んでくると、最初からへっぴり腰だったという。