ラ┐″└|ィ──ッノヽ─├♥Φ♦00とトミー・クルーズ

ラ┐″└|ィ──ッノヽ─├♥Φ♦00 三兄弟
ラ┐″└|ィ──ッノヽ─├♥Φ♦00









ラ┐″└|ィ──ッノヽ─├♥Φ♦00 1980年に日本ハムファイターズに入団し、来日。来日1年目から打率.309、本塁打26本、打点84の成績を記録。翌1981年もチームのリーグ優勝に貢献。1984年には打率.348、本塁打29本、打点96を記録し、ベストナインに選ばれる。1985年にも打率3割を記録したが、契約でもめて退団となった。
在籍時は3番クルーズ、4番トニー・ソレイタ、5番柏原純一(柏原とクルーズは入れ替えで3・5番を務めた)のクリーンナップを組んだが、ソレイタや柏原は後にクルーズについて「私生活では良い奴であり、野球では一切、自分に妥協を許さなかった選手」と語っている。
顔面に死球を食らって大出血、担架と救急車で球場を後にしたこともある。しかし、顔を7針縫ったにもかかわらず、翌日の試合にスタメン出場し、猛打賞を記録した。当時の大沢啓二監督のお気に入りだったことも伝えられている。
メジャーリーグでは7試合出場にとどまったが、日本では実働6年間のうち退団する1985年までで4回も3割以上の打率を残し、さらに通算打率.310、通算120本塁打を打った。また、三振が非常に少ない打者であった。