ラ┐″└|ィ──ッノヽ─├♥Φ♦00とジム・パチョレック

ラ┐″└|ィ──ッノヽ─├♥Φ♦00 最多補殺
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ラ┐″└|ィ──ッノヽ─├♥Φ♦00 ミシガン大学在学中には、野球だけでなくアメリカンフットボールのレギュラーも務めるほどの体格と運動神経を持ち、同大学を卒業した1981年のMLBドラフト14巡目でクリーブランド・インディアンスに指名されるが契約せず、翌1982年のMLBドラフト8巡目でミルウォーキー・ブルワーズに指名され契約。その後、長くマイナーリーグでのプレーが続いたが、1987年にようやくメジャーリーグに昇格し、主に一塁手三塁手として48試合に出場した。
翌1988年からはミシガン大学時代に日米大学野球で訪れた日本でのプレーを希望し、横浜大洋ホエールズに入団し、来日。同年は打率2位、安打数1位という好成績を残し、外野手としてセントラル・リーグベストナインに選ばれた。また、おとなしい性格だが真面目な態度と確実性のある打撃からたちまち人気を得た。その後も、4番打者カルロス・ポンセの後を打つ五番打者として毎年安定した結果を残し、1989年にも打率2位となり、1990年には念願の首位打者のタイトルを獲得した。だが1991年、それまでの3年間を下回る成績に終わり、さらに大洋フロント陣から「ホームランが少ない」と指摘され、大洋はこの年限りで契約を打ち切った。大洋時代の応援歌は大脱走のテーマソングであった。
1992年からはトーマス・オマリーの誘いもあり、同じセントラル・リーグ阪神タイガースに移籍した。同年、ラッキーゾーンが本拠地阪神甲子園球場から撤去され、守備力が向上した阪神は、優勝は逃したものの、1986年以来となるAクラスに入った。パチョレックは当初3番打者を任されていたが、シーズン後半からはケガで戦列を離れたオマリーに代わって4番打者に選ばれ、リーグ最多となる159安打、14勝利打点で期待に応え、ベストナインゴールデングラブ賞一塁手部門に選ばれた。
1993年当時は、外国人選手を3名以上出場選手登録することができなかったため、パチョレック、郭李建夫、オマリーのうち1人が出場できないことがネックとなっていた。スポーツマスコミはこれを当時国際問題になっていた国連平和維持活動のニュースにかけて、“阪神PKO問題”と呼んだ。当初は実績のあるパチョレックとオマリーが出場していたが、腰痛のためパチョレックの出場機会が少なくなり、出場選手登録枠を郭李に譲ってファームに落ちると、シーズン中に退団した。オマリーがお立ち台で関西弁を駆使して「阪神ファンは1番や!」と絶叫して人気を集めていたが、パチョレックもお立ち台で「阪神ファンは10番目の野手」とファンの持つ大きな力に感謝する発言をしていた。アメリカに帰国してからはメジャーリーグ復帰を目指したがかなわず、そのまま引退した。
2004年4月6日には横浜スタジアムで行われた古巣・横浜対阪神の開幕戦(横浜主催ゲーム)の始球式を務めるため11年ぶりに来日。このとき「僕は両チームとも在籍したけどあえて言うならクジラ(大洋の意味)のファンだね」との言葉を残し母国へ帰っていった。
なお、ジムを含め三兄弟でメジャー経験がある。長兄ジョン・パチョレック(John Paciorek)は1963年にヒューストン・コルト45's(現在のアストロズ)で1試合に出場し、3打数3安打3打点2四球4得点。「生涯打率10割の選手で最多安打」の記録を残している。次兄トム・パチョレック(Tom Paciorek)は1970年から1987年にかけてロサンゼルス・ドジャースを皮切りに6球団でプレーし、1392試合に出場し1162安打86本塁打、打率.282という成績を残している。
2007年6月に行われたMLBドラフトでは、息子のジョイ・パチョレックミルウォーキー・ブルワーズに15巡目で指名された。