ラ┐″└|ィ──ッノヽ─├♥Φ♦00とズレータ

ラ┐″└|ィ──ッノヽ─├♥Φ♦00 死球対策
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ラ┐″└|ィ──ッノヽ─├♥Φ♦00 2003年、小久保裕紀の長期離脱による攻撃力不足を補うために、シーズン途中に福岡ダイエーホークスに入団。「サードを守れる大砲」という触れ込みで入団したものの、送球に難があり三塁手での起用は見送られた。日本での初出場は、6月23日の対日本ハムファイターズ戦(福岡ドーム)で8番・ライトでスタメン出場したが、外野守備走塁コーチの島田誠が「想像を絶する守備のまずさ」と嘆くお粗末な守備を披露。ズレータは「まだシューズが届いていなかった」とスパイクシューズを履かずに外野の守備に就いたせいで思うように動けなかったことを主張したが、それ以降は指名打者に定着。当時スコアラーの金森栄治の打撃指導の下、持ち前のパワーを生かした特大本塁打を多数放ち、「パナマの怪人」と呼ばれる。チームのパシフィック・リーグ優勝・日本一に大きく貢献。日本シリーズ第1戦では阪神タイガース安藤優也からサヨナラヒット、第2戦では金澤健人からダメ押しの3ランを放っている。
2004年はレギュラーシーズン勝率1位に大きく貢献。2004年は3ラン本塁打を打つことが非常に多く、「ミスター3ラン」とも呼ばれた。
2005年は交流戦以降、膝などに不安がある松中信彦に代わり一塁手に定着。一塁では無難な守備を見せており、2005年はゴールデングラブ賞を獲得した福浦和也よりも失策数は少なかった。打率.319、43本塁打、99打点といずれもリーグ2位の好成績を記録。またオフに、第1回ワールド・ベースボール・クラシックパナマ代表候補に選出されたが日本のシーズンを優先するため辞退した。
2006年7月27日の対千葉ロッテマリーンズ戦で0-1の9回裏1アウト一塁の場面で、小林雅英からレフトスタンド中段へ20号逆転サヨナラ2ランを放った。この後、ソフトバンクは勢いづき、ロッテは失速するという、両チームにその後の明暗を分ける大きな本塁打となった。また10月9日、パ・リーグプレーオフ第1ステージ第3戦で、第2ステージ進出を決定づける特大本塁打インボイスSEIBUドームのレフトスタンド最上段に放った。オフ、複数年契約を求めるズレータ側と単年契約に固執する球団側とで折り合いが付かず、自由契約に。球団側の契約条件に退場による罰金事項等が織り込まれていたことに対し嫌気が差したとも言われている。首脳陣からの要請もあり、球団側も最終的には複数年契約を提示したが同意には至らず。12月29日、獲得の意向を示していたロッテと2年契約。バットのグリップ部分を頭上へ極端に持ち上げ、ヘッド部を投手方向へ向けるという変則的なバッティングフォームが特徴。来日当初はこの構えをしていなかったが、2004年終盤から構えを徐々にこの形に改良していきフォームの懐が深くなったことで更に成績が上昇し、リーグ屈指の強打者となった。2005年以降はバッティングフォームは固定していたが、2008年は前年の低調な成績によりオープン戦から開幕当初までは持ち上げていたグリップ部分を下ろして、若干オープンスタンス気味の構えにした事もある。
打球方向は基本的には引っ張り専門のプルヒッターであり、会心の打球は長大な飛距離を記録する。引っ張りでのホームランが圧倒的に多いが、好調時は難しい球を流してホームランにする事もあり、それがズレータの調子を示す一種のバロメーターとなっている。フォークやスライダー等の鋭く曲がって落ちる変化球が苦手であるが、甘く入った失投を逃さず捉え、ホームランにする技術に秀でている。2003年と2007年には小指の骨を折った状態で本塁打を放った。 一方で三振もかなり多いが、2005年にリーグ2位の打率.319を記録し、毎年安定した出塁率も残しており、ロッテ時代は故障の影響などで不振だったが、決して粗い打者だったという訳ではなかった。