ラ┐″└|ィ──ッノヽ─├♥Φ♦00とレオン・リー

ラ┐″└|ィ──ッノヽ─├♥Φ♦00 アドバイザー
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ラ┐″└|ィ──ッノヽ─├♥Φ♦00 グランドユニオン高校を経て、1971年にセントルイス・カージナルスと契約。メジャーに上がれず苦悩していたその折、ロッテオリオンズに入団し活躍していた兄のレロン・リーに誘われ、1978年からロッテでプレー。レロンと甲乙付け難い打棒を振るい、中軸を成した。
1982年オフ、横浜大洋ホエールズへトレード移籍。舞台をセ・リーグへ移しても強打は相変わらずだったが、1985年オフに突如自由契約となる。「チャンスに弱い」という理由だったが、同年の成績は打率.303、本塁打31本、打点110を記録していた。結局、ヤクルトスワローズに移籍し、1987年に退団。
実働10年で帰国するまで、終始安定した成績を残した。打撃3部門のいずれかで好成績を残した年には他の選手が突出した成績を残すという不運もあり、タイトルには縁がなかった。
移籍を重ねたものの、その先々で活躍して期待に応えた稀有な選手でもある。1980年にロッテで41本塁打、1983年に大洋で31本塁打、1986年にヤクルトで34本塁打を記録。現在日本のプロ野球史上で3球団で30本塁打以上を記録した数少ない選手の一人である。カブスの極東スカウトなどを歴任した。2003年にオリックス・ブルーウェーブの打撃コーチとして、16年ぶりに日本球界に復帰。同年4月に石毛宏典監督が解任されると、後任の監督に就任。それにともなって、前監督の「守備力重視」から「打撃力重視」にチームスタイルを変更したため、チームの打撃陣は好調だった(チーム打率リーグ2位、本塁打同3位。ただし得点は同5位)。しかし、ディフェンス面をあまりに軽視しすぎた結果、守備陣は大崩壊(チーム失策数132)し、投手陣も次々とプロ野球ワースト新記録(チーム防御率5.95、年間最多被安打1534、最多失点927、最多自責点819など)を乱発するほど壊滅状態となった。結局、前身の阪急時代を含めて球団史上最低勝率を更新する(ちなみに前年・2002年の勝率.365が球団史上最低だった)最下位となり、同年限りで退団した。
帰国後、ニューヨーク・メッツ傘下マイナーチームのブルックリンの監督に就任するが、開幕前の4月に局部露出で逮捕されるという失態を起こした。猥褻容疑で逮捕された件に関しては諸説あり、一部で伝わった話によれば、ホテルの隣の部屋で騒いでいた人達を諌めに行った所、その人達が逆ギレしてレオンを陥れようと共謀し、レオンが下半身を露出して訪れたと当局に訴えた冤罪事件だったとも言われている。レオンは日本に居る頃からジェントルマンとして知られており、とても常識的で多くの人の信望を得ていた事から、この猥褻容疑に関しては真偽を疑う人も多い。
現在は、日米スポーツ交流のコンサルティング会社を経営している実業家である。