├─≠ョ─ヵラスと江藤愼一

├─≠ョ─ヵラス 首位打者
├─≠ョ─ヵラス









├─≠ョ─ヵラス 幼少時より新聞配達などで家計を助けていた。熊本商業高校から日鉄二瀬に進む。1959年、中日ドラゴンズに捕手として入団。日鉄二瀬入社後は給与の大半を仕送りし、プロ契約金も全て実家に渡した[1]。
入団後一塁手に転向し(但し捕手としての出場もある)1年目からレギュラーとなる。確実性のあるバッティングで年々数字を上げ1964年・1965年には2年連続首位打者に輝き、巨人の王貞治三冠王を阻止した。なお、ON砲が揃って現役だった1959年から1974年の16年間において2年連続で打撃三冠タイトルを獲得したON以外の選手は江藤だけである。1967年・1968年には34・36本塁打と長打力も発揮した。
1969年、水原茂監督との確執から引退に追い込まれるが、日鉄二瀬、中日時代の恩師の濃人渉ロッテオリオンズの監督に就任したことを機にオリオンズに移籍。形式上は中日の川畑和人投手との交換トレードの形を取った。1971年には、3度目の首位打者に輝き、史上初の両リーグ首位打者(現在も江藤のみである)を獲得した。10月6日、自身の誕生日に南海とのシーズン最終戦首位打者が確定したが、その翌日に大洋ホエールズへのトレードを通告される。同年7月13日、阪急西宮球場での対阪急ブレーブス戦における没収試合が移籍の遠因になったとされる[2]。この没収試合によりシーズン中に日鉄二瀬時代からの恩師濃人渉監督と大沢啓二二軍監督との入れ替えが行われ、濃人を慕っていた江藤もチームから浮く格好となった。加えて新監督の大沢は若手中心の機動力野球を標榜したため、守備と走塁に難のあった江藤は構想から外れた。このトレードは当初ロッテ側が江藤、成田文男の2人と平松政次とのトレードを申し込んだが大洋側に断られたため、江藤と野村収の1対1交換という形で交渉が成立した。
1974年のシーズンオフに、河原明投手との交換トレードにより、地元・九州を本拠地とする太平洋クラブライオンズに兼任監督として移籍。球団運営会社(福岡野球株式会社)の経営難により、用意された住居は6畳一間のアパートであったが、「俺は野球が出来ればええんじゃい」と意に介さなかったという。1975年9月に2000本安打を達成する。同じく移籍組の土井正博本塁打王白仁天首位打者を獲得し、前期2位後期4位の通算3位となり初のAクラス入りの成績を上げたが、大リーグ監督レオ・ドローチャーを招聘する構想により解任。結局ドローチャーは体調不良により来日せずに契約を破棄したため、後任監督にはヘッドコーチの鬼頭政一が昇格した。
1976年、金田正一監督に請われロッテに復帰し、この年限りで現役引退。
引退後は、1985年、静岡県田方郡天城湯ヶ島町(現・伊豆市)に「日本野球体育学校」(通称「江藤野球塾」)を設立し、後に社会人ヤオハンジャパンとなり、多くのプロ野球選手を輩出する。その他岐阜県スポーツ少年団指導員に終身、2001年の第19回参議院議員通常選挙比例代表区から出馬(自由連合、落選)。その後は駿河台大学非常勤講師、特定非営利活動法人ワールドベースボールアカデミー理事長を務める。
2003年夏ごろに脳梗塞で倒れて入院、以後は寝たきりの生活であった。弟の江藤省三によれば、入院してからは球界関係者の見舞いを断り続けて、親族のみの訪問だけ受け入れていたとのことである。
2008年2月28日午後3時38分、肝臓癌のため東京都内の病院で死去。これは若い頃の飲酒の影響という。70歳没。
2010年、野球殿堂入り。