トンキョンkarasuと小沢通宏

トンキョンkarasu フットボーラー・オブ・ザ・イヤー
トンキョンkarasu









トンキョンkarasu 栃木県立宇都宮高等学校時代に同級生の岩淵功とともに活躍、2年次に全国高等学校蹴球選手権大会(現・全国高等学校サッカー選手権大会)準優勝、3年次に優勝を果たす。東京教育大学4年次には全日本大学サッカー選手権大会優勝に貢献。
大学を卒業後、1955年東洋工業(現・マツダ)へ入社。東洋工業蹴球部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)に所属し、小畑実監督の元、ハーフバックとして下村幸男石井義信、北島秀夫らとともに活躍。1962年の国体初優勝、全国実業団選手権優勝などに貢献、同年第2回日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)受賞。
一方日本代表(全日本)では、1956年メルボルンオリンピックで初選出されると、その後は代表の常連となり計36試合に出場した。長沼健が監督を務めていた1960年から64年までキャプテンとなり守備の中心選手だった。1964年の東京オリンピックにも出場が予想されたが、デットマール・クラマーの進言で、最終的に落選となった[1]。
1965年、日本サッカーリーグ(JSL)が始まるとフルバックにコンバートされる。今西和男・丹羽洋介・桑原弘之とともに守備ラインを形成し、松本育夫小城得達桑原楽之らと共にリーグ無敗優勝に貢献。1966年にコーチ兼任選手、選手引退後もコーチとして活躍した。
その後は社員として東洋工業/マツダに勤務した。1970年前後には海外勤務となり、オーストラリアのメルボルンに1年、北米マツダ副社長としてロサンゼルスに3年在住した。1984年、マツダSCのJSL2部降格を受けサッカー部部長に就任。社務においても、取締役総務部長として会社を支えた。その後はマツダを辞めてマツダレンタリース社長に就任した。また、Jリーグ入りに向け、日本サッカー協会長沼健川淵三郎らと交渉を行いサンフレッチェ広島誕生に貢献した[2]。
1975年より安芸郡府中町に設立された安芸府中サッカースポーツ少年団で総監督に就任。現在もコーチとして小学生の指導にあたり、梅田直哉宮本卓也らを育てている[3]。